バンド遍歴
2000.02.25
こないだ買い物に立ち寄ったコンビニの駐車場でプリウスがアイドリング状態で放置されていた。「お前それでもエコカーかっ!」
さて、先日の解散ラストライブではたくさんの方にお越しいただいてホント感謝してます。やっぱり客席に人が沢山いたほうが気持ち良く演奏出来るなぁということを強く感じました。で、そのラストライブの前の木場でのライブにて、ファンの子(つーか富塚君ていう男(笑))から「やっつさん、いつからベースやってるんですか?」と質問された。ま、ベースをなんで弾いてるかというと、10歳年上の兄に「ギターでもベースでもいいから弦楽器を貸してくれ」と言ったらベースが来ただけの話なんだが、今回はその後に質問された「いつからバンドやってるんですか?」という質問について詳しくお答えしたい。ベースは高校1年で始めて、当時は確かカシオペアとかTOTOとかジャーニーとかを自宅でチョコチョコとコピーしていた。で、 ベースって割と簡単に上達する楽器だからさぁ(笑)、すぐに「オレって上手いかも」とか思ってしまうじゃないすか。で、バンドでもやろっかな、と周りに目を向けると、当時の杉戸高校では、まずドラムがいない。キーボードもいない。ギターは数人いたが、ラウドネスとかレッドウォーリアーズなどをやりたがる人間しか見つからず、どうも一緒にやる気がしない。で、しょうがないからってんで、高校2年の時だったか、今もお世話になってる春日部昭和楽器の掲示板に張り紙したのね。「当方B バンド加入希望」みたいなさ。で、電話がかかってきたのが、日本工業大学の学生のSさんという人だった。で、向こうはハウンドドッグの大ファンで、とりあえずそれのコピーから始めて、ゆくゆくはオリジナルを、という意向らしいので、「ま、いっかな」という感じでその場で「やります」と応えて加入が決定してしまったわけですな。父親に「バンドに入ることになった」と言ったら、「そんなに適当でいいのか」と驚いていたが。で、そこには大学生ばかり3人(後に4人に増えたが)がいて、オレだけ高校生だったんだが、いつかのやっつうえぶでも書いたように、一緒に酒を飲んだりもした(笑)。でも、何をやるにも初めての経験だらけで、非常に楽しかったな。初のライブは前橋のアクターとかいうライブハウスで、なんでそんなとこでやったのかというと、ボーカルの人やなんかが単にボウイ(BOOWYのほうね)好きで、群馬でやりたかっただけらしい(笑)。で、どうもオレのTUNEというベースはロックに向かなかったのかどうか分からないが、ボーカルの人が用意したミュージックマンのベースを弾かされた。初のレコーディングもこのバンドで経験した。やっぱり昭和楽器のスタジオに一日中こもって録ったので、気が狂いそうになったものの、いい経験だったとも思う。このバンドはグラム・トラブルという名前だった。スティーヴィー・レイ・ヴォーンのバックバンドはダブル・トラブルだが、これとは無関係(笑)。語感だけで決めていた気がする。このバンドでの思い出といえば、高校3年の時に出場した「バンドエクスプロージョン 春日部地区予選」というコンテスト。メンバーが高校生だと「ジュニア部門」になるんだが、オレらはオレ以外大学生だったので、「シニア部門」で出た。で、バンドでの賞は逃したものの、唯一オレだけが「シニア部門 ベストベーシスト賞」をもらった(笑)。若造がシニアで出てるのに、他のやつらをおさえて取ったのでかなり嬉しかったね。もらったのはTシャツだけでしたけどぉ(笑)。ま、地区予選だしな。このバンドは、後にメンバーの仲が悪くなり、ボーカルの人は「次のバンドでもマサキ(オレのことだ(爆笑))とやっていきたい」と言ってくれたが、オレ的には、ちょっとごめんだなぁという気持ちと、大学受験が迫ってきたため断り、結局空中分解のようになってしまった。でも、大学に合格した後、みんなでお祝いをしてもらった時はちょっと申し訳なかったなぁ。だから、高校時代にやったバンドは1つだけです、即席バンドを除けば。で、大学時代。日芸のその名もフォークソングクラブというクラブに入り、そこでバンドをやっていたのが主な活動である。1年の時には、3年や4年の先輩たちがやっていたバンドにスカウトされる形で、東京シティロマンスというのに加わった。キャッチーなオリジナルのポップスをやっていて、8ビート、16ビート、シャッフル、レゲエ調と、曲に合わせて色々なスタイルのベースを弾かせてもらったなぁ。イカ天ブームがまだ尾を引いていて、応募はしたもののボツにされたらしい(笑)。2年になるとすべすべまんじゅうがにというバンドになった。これは同い年のギターとドラムとトリオバンドを組んだもので、このギターは、現在スーパートラップというバンドでギター&ボーカルの久保田光太郎である。「ポイント」という曲がカラオケに入っていたがオレもカミさんも曲を知らず歌えなかったのが情けない。ま、それはいいとして、トリオなのでフロントは二人だが、どちらも歌うのが嫌いで、押しつけあっていた。「これは、久保田が歌ったほうがキマるなぁ」「いやぁ、やっつ向きだよ~」みたいな。らちがあかないので、ボーカル担当はメロと歌詞を自由に出来る、という特権をつけることで解決した。作曲は全部久保田の担当でしたが。久保田は絶対に日本語で歌い、オレは絶対に英語で歌った。と、ここまで書いて気がついた。このバンドで初の合宿にドラムがどうしても来られないということで、二人でやったカグチョーズ(家具調ズ)というユニットで、オレボーカルで日本語の歌をやったんだっけか。すげーいい歌でした。こんな二人が今では、平気で人前で歌えるようになった。年月は人を変えますね(笑)。そういえば、新歓大講といって、新入生向けの各クラブ紹介のイベントにて、今は俳優業にいそがしいが、当時は軽音楽部だった宮藤官九郎氏(クドーちゃんと呼んでたけど)と一度だけ共演したのが確かこのころです。リコーのプリンターのCMやら二千年の恋やらに出演してる大人計画の人です。向こうは絶対に覚えてないだろうなぁ。3年になって、ドラムが変わり、女性ボーカルを加えてゲンナリ道場というバンドで再出発。これもオリジナルだけを演奏して、楽しかった記憶があります。4年になっても確かやってたんだっけかな?結局「大学生にもなってコピーじゃダセー」という思いがあったし、今もそう思ってるけど。卒業後の活動については「バンド遍歴2」をお待ちください。