オレとビートルズ
2002.06.09
こんちは~。5月は一回も書かなかったんだなぁ(感慨)
そんな今夜は日本-ロシア戦です。3-0で日本の勝ちだな。オレ実はフランス-セネガルはセネガルが勝つ気がしてたんで、予想当たるぞ!。でも「ピチピチユニフォーム」(我が家でのイタリアチームの代名詞はアッズーリではなく「ピチピチ」である)のイタリアがクロアチアに負けたのは予想出来ませんでした。マジで悲しい。あの2回もオフサイド取った線審許さん。
えっと、今回はそういう話じゃなくて、ずばり直球で「オレとビートルズ」だ。よく質問で「どんなミュージシャンが好きか」と問われると「西海岸系」と答えてはいるが、実はビートルズも好きだ。つーか、ビートルズが嫌いなやつっていんのか?と思うし、それはもう「好き」とかいうレベルじゃないので、あえて「好きなミュージシャン」の答えには入れないんだけど。自分がTVやラジオから流れてくる音ではなくレコードに刻まれた音楽として、ちゃんと聴きたくて聴いたのは、ビートルズが最初だ。八丈島の我が家にはベッドがあるのに寝室ではなく、書斎と言うには蔵書がえらく少ない、アラン・ドロンのパネルが飾ってある謎の部屋が存在した。そこには、蔵書よりはちと多めのレコードとステレオ装置があり、多くは父親の所有する退屈そうなレコードだったが、中に10才上の兄が買ってきたビートルズのレコードが何枚かあった。よく聴いたのはオールディーズという編集盤、オリジナルアルバムではラバーソウル、サージェントペパーズ、フォーセール、イエローサブマリン、マジカルミステリーツアー、それから聴いた&見た覚えがあるのに、何故か突然行方不明になったホワイトアルバムなど・・。これらのアルバムを小学校から帰ってくるなり、来る日も来る日も聴き続けた。A Hard Days Nightのイントロとギターソロにしびれ、Getting Betterのカッティングにしびれ、We Can Work It Outの曲調に心を躍らせたあの毎日は、今となってはどうやっても取り戻すことの出来ない至福の時間だった。そしてまた、これから大人になっていく自分の将来が楽しみで仕方が無い、そんな気分にさせてくれるレコード達であった。当時はバンドスコアならぬギターコードブックなるものが存在し、それに収録されていた英詩を歌っているうち、英語そのものは口に出して読めるようになった。ただ、文章の意味そのものは全く理解してなかったけど(笑)。そして、そんな時間をバッサリ切られたような感覚に包まれる事が起こった。杉並に住む祖父が危篤状態に陥り、家族全員で埼玉に来ていた際、朝読んだ新聞にそれが書いてあった。「ジョンレノン射殺される」というニュースだった。何故かは分からないが、この時から「ビートルズはオレが生まれた頃(1971年生まれです)には解散していたのだ」「古い音楽じゃダメだ。今の音楽を聴かなきゃ」というような考えをオレは持ち始めたような気がする。事実、その辺りからはアメリカで言うところのトップ40もの(笑)をラジオにかじりついて聴いていたものだ。
何かの書物に書いてあった、-オノ・ヨーコの出現が、レノンとポールの仲を引き裂き、ビートルズ解散に繋がった-という一文を、そうだそうだと頷いて信じ込んでいた。だから、ImagineやWomanなどの一連のジョンレノンソロ作品をなんとなく好きになれなかった。(オノ・ヨーコに影響されて)変わっちまったなぁ、という感じにとらえていたのかも知れない。ロック魂が無く、甘ったるい音楽に聞こえた。もしも、オレと同じでそういう風に考えてる人がいたら、是非ともさいたまスーパーアリーナの中にあるジョンレノンミュージアムに足を運んでもらいたい。ジョンレノンのパートナーはオノ・ヨーコ以外考えられない、と思うはずだ。それ位、あのミュージアムはジョンレノンという人をよく伝えているし、もちろんオノ・ヨーコが監修に加わっているだけあって、アート色も強いし、いかにオノ・ヨーコの影響が大きかったか、という意気込みも十分伝わってくる(笑)。例えば生前、ミドルネームをオノに変更した、なんてエピソードをオレはミュージアムで初めて知ったしね。
何よりもオレが興味があったのは、あの「ジョンレノンの死」を、どういう風に表現しているか、であった。未だに「ジョンが生きていれば」と願う人々が多い地球で、その名も「ジョンレノンミュージアム」を名乗るこの博物館は、あの1980年12月8日に関して、何を書いてくるのか。犯人の名前や動機、それとも、デカデカと見出しの躍る当時の新聞・・。しかし実際には、そのどれも書いていない。ネタばれになるので詳しくは書かないが、「死んだ」の記述すらどこにもない。ここを見た時に、昔からずっと感じていた「オノ・ヨーコの異物感」が取れてすっきりした気分になれた。同時に、ジョンは死んじゃいない、ジョンの思想は永遠だ、と確信することが出来た。そして、その後に控える「ファイナルルーム」なる部屋には、遠くまで見渡せる大きいガラス窓と、そこへ腰掛けてジョンの残した言葉にどっぷりと浸れる椅子が設けられている。ここに座ったら、あの八丈で過ごした至福の時間が戻ってきた。
危うく泣くところだった。
2020年5月追記
言うまでもなく、このジョンレノンミュージアムは2010年9月30日に閉館しました。2回しか行けなかったけど、目の前で「ヨーコの電話」を取った人がいて羨ましかった思い出があります。